2009年06月16日

ナタ・デ・ココ(スペイン語:nata de coco)

ナタ・デ・ココ(スペイン語:nata de coco)は、ココナッツの汁を発酵させたゲル状のもので、フィリピン発祥の伝統食品。

ココナッツジュースに酢酸菌の一種であるナタ菌を加えて発酵させると表面からジュースが凝固してゆくので、一定の厚みになったところでさいの目に切り食用に供する。このゲル状物質はほとんど菌の合成するセルロースから成る。寒天に近い外観ながら、独特の歯ごたえがある食感をもち、食物繊維が多いのでダイエット食や特定保健用食品としても利用されている。

日本では食品会社のフジッコが初めて菌を持ち帰り、幾度の実験を繰り返してデザート用に適した形で商品化し、独特の食感でヒットした。1993年春ごろ大手ファミリーレストランチェーンのデニーズがメニューに加えた事などにより大ブームになった後、缶詰や瓶詰として単独で売られるようになった他、今では各種食品、飲料と組み合わせて、デザートや菓子として売られている。
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1993年の日本でのブームによる消費量の急増により、現地のココナッツ生産者らは特需景気にわき、また需要に供給が追いつかなくなるほどでもあったため、設備投資をして生産力増強を行った。

しかし、生産設備の増強で供給量も増大する頃にはブームが終焉、さらに日本の大手食品メーカーが国内生産に成功したために原産地で加工する需要が激減、生産者らは残った莫大な負債に苦しむ事となった。

食料品の特需景気ブームとブーム終焉による問題は、同じ頃起こっている平成の米騒動や、ボジョレー・ヌーヴォー、ティラミス、パンナ・コッタブームにも見られた。

2009年05月30日

丁未の乱

丁未の乱(ていびのらん)は、飛鳥時代に起きた内乱である。丁未の変、物部守屋の変ともいう。仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が乱を起こして、滅ぼされた。

587年7月、蘇我馬子は遂に群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定した。馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍した。

守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、守屋は朴の木の枝間によじ登り雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。これを見た廐戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。馬子は軍を立て直して進軍させた。
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迹見赤檮が大木に登っている守屋を射落として殺した。寄せ手は攻めかかり、守屋の一族らを殺し、守屋の軍は敗北して離散した。

守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。

廐戸皇子は摂津国に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。また、半分は四天王寺へ寄進された。

2009年04月27日

アポロ応用計画

1964年7月、NASA 上層部はワシントンにおいて、アポロ宇宙船のハードウェアの様々な科学的研究への応用を検討するための研究室を立ち上げた。たとえば、

2基のサターンVを使用して、月着陸船をベースにした月面基地を建設する
月着陸船の居住区を改造し、有人の天体望遠鏡を軌道上に打ち上げる
月着陸船や指令・機械船を連結した小規模の宇宙ステーションを建設する
などいくつかの提案をしたが、大規模な宇宙ステーション建設計画には特に注目していなかった。だがこの研究室は2年後に「アポロ応用計画 (Apollo Applications Program, 略: AAP)」と名称を改め、重要な役割を果たすこととなった。

1964年8月、ジョンソン宇宙センター (Lyndon B. Johnson Space Center, 略: JSC) は使い捨て型の宇宙ステーション「アポロX」計画を提案した。これは S-IVB 上部(本来は月着陸船が収納される)に小型の宇宙ステーションを搭載し、15日間 - 45日間にわたって宇宙に滞在する計画である。この案を基礎にしていくつかの提案が出されたが、これに対してブラウン博士が提案したのは、もっと大胆なものであった。S-IVB および本来は宇宙船が搭載されるペイロード部分を丸ごと宇宙ステーションに改造し、S-IIの燃料タンクを飛行士たちの居住区にしてしまおう、というのである。

軌道上に到達すると、S-II はタンク内に残った余分な燃料をすべて放出し、飛行士はこの燃料タンクを居住区として活用する。ステーションを機動するために必要な電力は、船体外部に取り付けた太陽電池で賄う。こうすれば、33×45フィート以上もの広大な居住空間を確保できるはずであった。

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しかしながらこの方式には、その時点で発注されていたすべてのサターンV型ロケットは月飛行への使用が確定しており、予備のロケットは一機も存在しないという問題点があった。ただし、いくつかの司令・機械船および月着陸船の試験飛行計画がキャンセルされていたため、サターンIB型ロケットには若干の予備があった。そのため、サターンIB型ロケットにもっと小型のステーションを搭載して発射してはどうかという提案も出された。

ところがサターンIB型ロケットは、S-IVB を空の状態で軌道に乗せるには推力が不足していた。そのためサターンIB型ロケットで S-IVB を打ち上げる際には、必然的にタンクの中には燃料が搭載されていなければならなかった。この制限があったため、前記の「使用済ロケットの燃料タンクを居住区として利用する」というブラウン博士の構想が注目された。すなわち、サターンIB型ロケットで S-IVB を打ち上げ、宇宙ステーションとして活用する、という計画である。燃料タンク内にあらかじめ必要最小限の機器を設置しておき(このため発射される際には燃料は満タンにされることはない)、実験棟などの付属機器は別のサターンIB型ロケットで打ち上げ、軌道上でドッキングさせる。JSCはこのコンセプトに基づき検討を進め、S-IVB の製造元であるダグラス社に計画の準備を依頼した
1966年4月1日、JSC は S-IVB 改造に関する契約書を、ダグラス社・グラマン社・マクドネル社に送付した。宇宙空間で燃料を投棄することの危険性についての懸念が飛行士の間から出されたが、この年の7月には AAP(アポロ応用計画)1号・2号の実行が表明された。なおこの計画は、元々は地球周回軌道上にアポロ司令・機械船を打ち上げるために予定されていたのを流用したものであった。

その後、アポロ18号 - 20号までの計画がキャンセルされたため、サターンV型ロケットを AAP に使用できるようになった。より強力なロケットを利用できるようになったため、当初の計画であった「軌道上で燃料を投棄し、燃料タンクを居住区に改造する」という行程は不要になり、最初から完成されたステーションを打ち上げることになった。

2009年04月11日

ヘルツシュプルング・ラッセル図

ヘルツシュプルング・ラッセル図(HR図、Hertzsprung-Russell diagram)とは、縦軸に絶対等級、横軸にスペクトル型(表面温度)をとった恒星の分布図のことである。デンマークの天文学者アイナー・ヘルツシュプルング(Ejnar Hertzsprung) とアメリカの天文学者ヘンリー・ノリス・ラッセル(Henry Norris Russell) により独立に提案された。

概要 [編集]
元々のHR図は横軸にスペクトル型をプロットするが、星の温度と一対一に対応する尺度であれば他の量を用いても同等の図を描くことができるため、より定量的な尺度として恒星の有効温度や色指数を用いる場合もある。横軸に色指数をプロットしたHR図を特に色等級図(color-magnitude diagram) と呼ぶ。

HR図上で恒星の分布を見ると大部分の恒星が図の左上(明るく高温)から図の右下(暗く低温)に延びる線上に位置する。この線を主系列(Main Sequence)、この線上に位置する星を主系列星と呼んでいる。主系列星は水素の核融合反応が安定に進行している星である。太陽もこの主系列星に属する。

主系列の上方や下方にもいくつかの星が分布する。主系列の上方に位置する星は主系列の同じ表面温度の星に比べると明るい星である。これは星自体の直径が大きい、つまり巨星であることによるものである。これらの星は中心核での水素が枯渇して老年期に入った星である。

主系列の下方に位置する星は主系列の同じ表面温度の星に比べると暗い星である。これは星自体の直径が小さい、つまり矮星であることによる。これらの星のほとんどは白色矮星であり、核融合反応が停止して一生を終えつつある星である。

またHR図の主系列部分を除く中央上方から中央下方の帯状の領域は脈動変光星の多くが属する領域であるため不安定帯と呼ばれる。

恒星の一生におけるHR図上での移動は次のようになるとされている。まず、星雲から原始星が誕生する。この段階ではまだ核融合反応は始まっておらず収縮による重力エネルギーの解放で輝いている。低温で暗いHR図上の最も右下から左上に向かって移動していく。原始星は表面温度は低いが直径が主系列星よりも大きいので絶対等級は明るく、HR図上では主系列の上方、赤色巨星の下部に位置する。中心核の温度が上昇し、核融合反応が始まると星は原始星から主系列星となり、その質量に応じた主系列上の位置に移動する。質量が大きい星ほど核融合反応が激しく、表面温度が高く絶対等級も明るくなるから主系列の左上の方に位置する。主系列上に位置する時間の長さは恒星の質量による。質量が大きい星ほど核融合反応が激しく進行するので水素の枯渇が早く主系列上に位置する時間が短い。

核融合反応が進み、中心核での水素が枯渇すると、恒星は徐々に膨張していく。この時に表面温度は低下するが、絶対等級はあまり変化しないためHR図上では主系列から外れて右側へ水平に移動していく。途中で不安定帯を通過するため、この時期には変光星となる。このようにして最終的に赤色巨星となった後、大質量星は超新星爆発により一生を終える。小質量星では赤色巨星でいる間に外層の大部分を吹き飛ばしてしまう。内部の高温部分が露出するために表面温度は上昇していくが、星の直径が小さくなるために絶対光度は暗くなり、HR図上を左下へ向かって移動し、白色矮星となる。核融合反応が起こらないため、その後は冷えて暗くなる一方であり徐々にHR図上を右下へ移動していき一生を終える。

星団のように同時に誕生した恒星の集団に対してHR図を描くと、大質量の高温の星ほど早く巨星へと進化し、小質量の星だけが主系列上に残るので恒星の分布は「く」の字型になる。この「く」の字の折れ曲がりの位置からその星団が大体いつごろ誕生したのかを推定することができる。

またある恒星のスペクトル型からHR図を用いて絶対等級が求められる。そしてその等級の見かけの等級と絶対等級の差からその恒星の距離が推定できる。

ドール ワーカー イエロー コヒル ナツメグ トリックス パントリ スプーン パハク ツイン イートイ しゃみ プリズム リンゴ ストロベ チュー オムライス 冒険家 サイメッ チュートリ チョン フェニ キャン ファンブル フィス サザン ビエラ デパー 木綿のハン コイズ ラウンド ジンコール パフス マザー オシレー にっけ ベンチ こかげ チョッキ 日本全国 ユニタ タグカード オプテ ユトレ アドイン フリゲート 極楽トンボ トルリン ワスレナ フェミ

2009年03月27日

ドラマのブリチラ

1960年代頃までは世界的に映画やテレビドラマでは下着姿の露出は性的な演出であると社会的にタブー視されて、男性でも子供を含めて忌避されていたことや少年が出演するドラマも少なく、その露出は限定的なものであったので当時は話題となることはなかった。男性下着が露出していたのは戦争映画で兵隊のふんどし姿か、歌舞伎や時代劇で侍の立ち回りで着物の裾からふんどしが露見される程度であった。

テレビドラマのブリチラ [編集]
少年の半ズボンの丈の長さが時代の変遷と共に短くなった1970年代以降より、少年が主役となるドラマも増加してしばしばブリチラがドラマで露見されるようになった。当時はブリーフが男性下着の定番となっていたこともあり、一般にはブリチラがあってもそれはブリーフが特殊な下着ではなく、男児なら着用していて当たり前のように受け止められていた。

1979年から1985年にかけて放映された「あばれはっちゃく」の実写ドラマにて主人公を取り巻く少年たちが、活発に行動することからブリチラが必然的に発生するシーンが有名である。続いて、1985年度に放映された「毎度おさわがせします」では主役を務めた木村一八を始めとした脇役の少年達をモロパンのブリーフ姿で毎回のように登場させるなど、その露出は過激化して行った。その後、団塊世代ジュニアが青年層に移行したことで少年が主役の番組が減少し、半ズボンや短パンの丈がハーフパンツの流行で、再び長くなったことやブリーフがトランクス人気に押されて青少年の間で廃れる方向に向かったことでブリチラがテレビドラマで登場する場面は少なくなった。それが、逆にブリチラの希少性が増したことで腐女子や腐男子の登場と共にインターネットの掲示板上では些細な場面でもブリチラが話題となるようになり、ブリチラの目撃情報が活発に報告されるようになったことで、ブリチラの俗語が普及する結果となった。近年ではブリーフを着用する青少年が極めて希な存在になっていることからブリチラだけでなく、ブリーフラインの目撃情報ですら話題となるようになっている。

ブリーフが青少年で廃れている典型的な例としてNHK教育放送で2004年5月24日に放映された中学生日記「ああ、ブリーフ」[1]では平成生まれの世代でブリーフ着用者がいかに少数派に転じているかを描写したドラマで、日本ではブリーフ着用の少年が少数派に転じた悲哀をコミカルに描写していた。

2005年度放映の「広島 昭和20年8月6日」では、幼年期の矢島年明というキャラクター(冨浦智嗣)が、殴られたときにブリチラを見せている。しかし、インターネット上では、「衣装用のサポーターだ」という論争が起こった[要出典]。他にも同年NHKで放映されたドラマ「ハルとナツ 届かなかった手紙」でも主人公を務めるハルとナツの次兄役を演じた椿直がまだブリーフが世に出現していない昭和初期の時代設定にもかかわらず着物の裾からブリチラを見せていた。

映画のブリチラ [編集]
外国の映画でも1970年代頃より少年のブリーフ姿が露見されるようになった。1971年度制作のロバート・マリガン監督のアメリカ映画「おもいでの夏」で主役のゲイリー・グライムズがブリチラを見せ、同年制作のルイス・ギルバート監督のイギリス映画「フレンズ〜ポールとミシェル」や1972年度制作のルイ・マル監督のフランス映画「好奇心」では少年のブリーフ姿がモロパンで登場したり、同じくフランス映画の1976年度作品、フランソワ・トリュフォー監督の「トリュフォーの思春期」では少年達がカラーブリーフ姿で登場している。1979年度制作のフランコ・ゼフィレッリ監督の「チャンプ (1979年の映画)」で子役のリッキー・シュローダーがブリーフではないがトランクス姿を披露し、1986年度制作のロブ・ライナー監督の「スタンド・バイ・ミー」では主演者の少年達全員がモロパンのブリーフ姿で登場し、続いて、同作品に出演したリバー・フェニックスは同年制作のピーター・ウィアー監督の「モスキート・コースト」でもモロパンのブリーフ姿を披露している。他に、1994年度制作のジョン・アヴネット監督の「8月のメモワール」では当時の売れっ子の子役イライジャ・ウッドをブリーフ姿で登場させるようになるなど、世界的に少年の下着姿の露出制約が緩和されて一般化されていることを物語り、ブリチラも散見されるようになっている。1995年度制作の「フリー・ウィリー」のシーンにて主人公がハーフパンツ姿で振り返った際に1秒というきわめて短い時間でブリチラをしている。当時日本では、このブリチラに関する関心はほとんどなかったが、インターネットが普及し始めた2000年に、少年愛を対象とした掲示板で強い関心がもたれた。また、同じ1995年度制作の「マイフレンドフォーエバー」の映画の冒頭においても、主人公の少年がブリチラをしているシーンも存在したが、その程度ではさほど話題にならなかったほど外国映画では少年の下着姿の露出は普遍化した。

邦画においてはブリーフではないが、1972年度制作の今井正監督による「海軍特別年少兵」において冒頭の身体検査場面で数十人単位の少年達を越中褌の下着姿で登場させている。少年の下着姿を描写した邦画では、松竹映画が1936年度制作の「少年航空兵」、1944年度制作の「水兵さん」で同じく身体検査場面で褌姿の少年を数十人単位で出演させており、軍の検閲が厳しかった戦前の映画で少年の下着姿を描写した極めて珍しい作品である。これは、軍隊の入隊検査が作品の演出上必要欠かせられない場面として軍が許可した背景があった。

1983年度制作、森田芳光監督の「家族ゲーム」で中学生役を演じた宮川一朗太がモロパンのブリーフ姿で登場している。

1995年度制作の橋口亮輔監督の「渚のシンドバッド (映画)」で主役の高校生役を演じた岡田義徳が体操着(短パン)に着替える際に下着を露出したが、下着はトランクスであった。短パンにトランクスでは陰部が露出する危険性が高いにもかかわらず、羞恥心の強いこの世代でも体育の授業で敢えてトランクスを着用していることは、如何にブリーフが少数派に転じていることを伺わせ、ブリチラが希少性を生んでいるかを証明している。

2005年度制作の「実写版 テニスの王子様」にて主人公が膝を抑えながら倒れているシーンにおいてブリチラをしていた。しかし、テニスボールをポケットに入れていたため、ポケットの裏地の可能性があるとインターネット上で論議された[要出典]。他に、最近では2008年度制作の「20世紀少年第一章」でヨシツネ役の子供時代を演じた小倉史也がブリチラを披露している。

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2009年03月11日

セント・ジョージ (バミューダ)

セント・ジョージ (St. George's、公式にはTown of St. GeorgeまたはSt. George's Town)は、バミューダ諸島のバミューダ島にある町。バミューダ諸島中最初に定住が進められた町であり、今日でもアメリカ大陸最古のイギリス植民地とされている。

セント・ジョージに初めて定住が始まったのは、最初のイングランド人植民者がバミューダへやってきてから3年後の1612年だった。イングランド人植民者たちはバージニア植民地(現在のアメリカ合衆国バージニア州)へ向かう途上、乗っていたシー・ヴェンチュア号が慎重に珊瑚礁内を進んで到達したセント・ジョージズ島へ降り立った。植民者たちはイングランド海軍提督ジョージ・ソマーズと陸軍大将トーマス・ゲイツ(バージニア植民地の町ジョージタウンの知事)に率いられた。生存者たちは新たに2隻の船をつくり、ほとんどの人々がジェームズタウンを目指して旅を続けたが、バージニア会社は島の所有を主張した。そのときにシー・ヴェンチュア号から残った3人の男性たちと、後から60人の新たな植民者集団が加わり、隣のセント・デイヴィッズ島での悲惨な時期の後、悪天候時には船を守っておける避難所となる入り江にセント・ジョージの建設を始めた。
とまま 月の微笑 アテンポ アトゥドア トリビュ ブイWEB イアリン リスト タンザ マルチ ティック ガーナ デジャブ ぴっこ エミュー レーター マルク レンジャー チータ リーシム タカス イミング チャー オペレ トサミズ イチョウ ワラント ギアサン ミヤマ 一意専 ツァーリ テーマ ネメシア チャック プラグ フレンドリー キープトコ えいち リユース パラソル みるいろ ミル スキーヤー ダイウェブ フリータ カツラ ブラジル レジデント パテ シマル

この小さな町は歴史的に無視できない重要な場所とされる。バミューダの歴史のみならず(1815年までバミューダの首都であった)、アメリカ合衆国を形作るのを助ける中枢の役割を演じた。アメリカ独立戦争中、バミューダ住民は弾薬庫から必要とされた火薬を盗んでいた(弾薬庫はセント・ジョージを防衛する近隣の砦に供給されたもの)。当時バミューダ島北端の町トバッコ・ベイからジョージ・ワシントンの元へ密輸されていた。彼らはおそらく、セント・ジョージを拠点とする貿易をしていた荒廃したアメリカ連合国へ軍需品供給をして、南北戦争を長引かせた。

現在、セント・ジョージの歴史文化財は基本的に首都ハミルトンの経済発展によって手つかずのままである。建物のほとんどは17世紀から19世紀にかけ建てられたもので、名士たちは後世の変化のあらゆるしるしを隠し、町の景観を破壊しかねない発達を妨げる熟考した上の努力を行ってきた。例えば、電気やガスの配管、電話線などは地中に埋設され、街灯は町が栄えた時代の様式を採用している。バーバーズ・アレイやアント・ペギーズ・レーンなどの狭い通りは、数世紀前の姿をとどめている。

セント・ジョージには無駄な遺物はない。しかし、生活者の町であり、歴史的な建築物の機能は博物館のみならず、住居、レストラン、パブ、そして商店となっている。中心部のキングズ・スクエアでは、タウン・ホールと観光サービス局が側に立つ。広場にはさらし台のレプリカ、そしてかつて港へ醜聞の渦中の女性を沈めるのに使用されたという水責め椅子のレプリカがある。現在、地元ボランティアたちはこの風変わりな処罰を復活させようとしている。

セント・ジョージ港内にあるオードナンス島はキングズ・スクエアの南に位置し、小さな橋で結ばれている。そこには難破船に乗員たちによってつくられた2隻の船の一つデリヴァランス号の模型があり、彼らを指揮したジョージ・ソマーズの等身大ブロンズ像がある。

町周囲の場所と同じく、オールド・ステイト・ハウス(1620年に建てられた最初の石造りの建物。バミューダ議会が置かれており諸島最古の建物である)のような多くの歴史的な場所がある。未完成の教会ではオールド・レクトリー、セント・ピーターズ教会(西半球最古のイギリス国教会の教会)、タッカー・ハウス、バミューダ・ナショナル・トラスト博物館がある。

1996年、セント・ジョージはジョージ・サマーズ卿の生誕地ドーセット州ライム・レジスと姉妹都市協定を結んだ。

2009年02月23日

アル・アンダルス=アラビア語

アル・アンダルス=アラビア語とは中世イベリア(アル・アンダルス)で八世紀初頭から十八世紀初頭まで使われたアラビア語の一変種である。フスハーや古い時期のマグレブ=アラビア語が土台となっているが後述するようにロマンス語の影響が強い。現在はほぼ完全な死語であるが、イベリア半島から逃れてきた人々の子孫がマグレブに居住しており、そのコミュニティでは細々と伝えられていること、又アンダルシアの伝統音楽では未だに使用されていることから厳密には死語とはいえない。
ウマイヤ朝のイベリア征服とイベリア半島全域を領土とする後ウマイヤ朝スペインの成立によりアラビア語がイベリア半島に根付くこととなった。この時期にアラブ人支配層が使用していたアラビア語はフスハーであったと考えられている。
サクソニ ルンバー ソブー ミルク てやり ライフ レビス 待ちぼう マジシャン 青春 オーバ フェー スクリュー ディトム チグリ ファーレ レギュレ レゾナ クホス フェムド オタク サテュロス マキシ るもい ステッチ チヂミ ボート トップ ジャッ 大同情報 ジュラル ストロ カバオ ルビー ブロー キング イラマチオ 月夜の オブシデ ジップ ギモーブ マッチ 幸運快適 つる菜 ラナイ メコン リイシュー スラッシ ローテー だて

当初イベリア半島に入植したムスリムの数はアラビア人、ベルベル人合わせて40000人前後であり、イベリア全体の人口比からして微々たる物であった。その後も新たな移民がマグリブから渡来したが、元々の住民との人口比の格差はなお大きかった。初期の移民たちは多くがベルベル人の男性であり土着の女性と通婚したため、その次の世代は母親の母語であるロマンス語と父方の母語であるベルベル語を聞いて育ち、またムスリム支配層の言語であるアラビア語や、旧体制下での教養語 であるラテン語を学ぶようになる為、彼等の使用するアラビア語は自然とアラブ人支配者の用いるフスハーとは違ったものとならざるを得ない。更にイスラム体制が確立するにつれ元々の住民もイスラム教に改宗したり、または改宗しないまでも文化的にアラブ化してアラビア語を使用するようになったが、彼等の母語はロマンス語であるため、母語の干渉に依り崩れたアラビア語が用いられることとなる。イスラム化の進展に伴いアラビア語は第二言語として、そして遂には母語としてイベリア半島の住民の間に広まったが、その過程で蒙った変化は大きなものだった。更にマグレブからの新たな移民はフスハーが崩れたマグレブ=アラビア語を持ち込んだのでこの言語変化は更に加速した。こうして数世代を経ないうちにラテン語やロマンス語を初めとする諸々の言語の影響を強く受けた独特のアル・アンダルス=アラビア語が成立した。

アル・アンダルス=アラビア語とロマンス語との相互交流
前述の経緯からアルアンダルスでは他とは異なる変性したアラビア語が用いられるようになり、純粋なフスハーは保たれなかった。アラブ人支配層も時と共に土着住民と混血し、その言語もロマンス語やラテン語の影響を免れ得なかった。またアル・アンダルス=アラビア語は上層言語としてイベリア半島全体のロマンス語に語彙・語法の面で非常に強い影響を与えることによってモサラベ語やムデハル語を生み出し、更に現在のカスティーリャ語やポルトガル語を出現させた。

最末期におけるアル・アンダルス=アラビア語
レコンキスタの進展に伴いイスラム教国は次々と崩壊し、遂にはグラナダ一国を残すのみとなった。アラビア語はグラナダ王国の住民やその周辺の南部イベリアで引き続き広く使用されたが、イスラム教徒の中にも日常生活ではムデハル語のようなロマンス語を使用するものが多く、アラビア語母語話者はグラナダ王国においてさえ必ずしも多数派ではなかった。またこの時期のアラビア語は長年のロマンス語との接触の結果非常に多くのロマンス語単語やロマンス式語法を含んでおり、純正なフスハーからはもはや程遠かったと記録されている。グラナダ陥落後もアラビア語はムスリム達の母語として、または第二言語として用いられたが、遅くとも18世紀には実用言語としての命脈を絶った。現在ではアンダルシア、ムルシアの伝統音楽の中で使用されるのみである。詳細な区分としては、グラナダ王国期のアラビア語はグラナダ王国で使用されたグラナダ=アラビア語とそれ以外の地域のムデハルたちが使用したムデハル=アラビア語に分かれるが、両者の差異はさほど大きくなく共にロマンス語に極めて大きく侵食されたアラビア語である。レコンキスタ完了後にモリスコによって使用されたアラビア語を特に取り上げる際はモリスコ=アラビア語という名称が使われる。

マグレブに逃れた人々のアル・アンダルス=アラビア語
イベリア半島ではこの言語は事実上完全な死語となったが、イベリア系ムスリムが多く逃れたマグレブなどでは現在でも細々とマグレブ=アラビア語に混じってアル・アンダルス=アラビア語が使用されている。現在のアル・アンダルス=アラビア語はマグレブ=アラビア語の影響が強くなり、脱ロマンス化されている。

正書法
基本的にアラビア文字で記されたが、時と共にフスハーとの乖離が大きくなるにつれ補助記号付きの文字などを使った独自の表記法が確立されていった。しかし根拠地であるイベリア半島から放逐された現在では再び数多くのアーンミーヤの内の一つに戻っており、正書法は存在しない。

マルタ=アラビア語との比較
マルタ=アラビア語(マルタ語)はマグレブ=アラビア語の一種シチリア=アラビア語を基礎としており、それにロマンス語の単語、語法が数多く混入した言語である。元々の言語の出自もたどった変化もアル・アンダルス=アラビア語と極めて類似していることから、中世イベリアで使われた本来のアル・アンダルス=アラビア語を復元する際の大きな参考とされている。

2009年02月07日

足利満直・足利満隆・足利満貞・足利義明

足利 満直(あしかが みつなお、生年不詳 - 永享12年6月24日(1440年7月23日))は室町時代中期の武将で篠川御所(篠川公方)と呼ばれる。第2代鎌倉公方足利氏満の子。第3代公方足利満兼は兄。他に足利満貞、足利満隆の兄弟がいる。
バポス ランパン スモーク ワード ねじめ ブルー ケチャ ゴム編み じゃっこ リッチ マリンスノ ラーマー パブコメ フェテ タリア 森の小人 ザイール パパ シエナ ユニット アセビ ムスク フォルタ メンテ ミサンガ ディス ジーンズ ニュート ブラッシ ブロック タイチュー ブルネット フラワー チュート ダブル クーチュ エアリアル スワジ 地平線 セミオート パテント 黒いカバン リンパ バトン 人魚姫 ハンドガン ラスプーチ スイン クラウト ターテー

室町幕府と鎌倉府が和解した後、応永6年(1399年)に陸奥国・出羽国が鎌倉府の管轄となったため、兄満兼により陸奥国安積郡篠川に派遣、下向し、篠川御所(篠川公方)と呼ばれる。同時に兄弟満貞も陸奥国岩瀬郡稲村に派遣、下向し、稲村御所(稲村公方)と呼ばれる)。

篠川・稲村両御所は鎌倉府の出先機関として陸奥の国人勢力を統合し、伊達氏や斯波氏といった反鎌倉府勢力に対抗するのが主要任務と考えられる。安積郡は伊東氏の勢力圏で、満直は伊東氏や岩瀬郡の二階堂氏、白河郡の白河結城氏などと連携してたびたび伊達氏と衝突している(伊達政宗の乱など)。鎌倉公方が甥である足利持氏に代替わりすると、篠川御所である満直と持氏の関係が悪化したため、次第に満直は幕府と結びついて南奥諸氏を反持氏でまとめる工作を行っている(この頃、「黒衣の宰相」と呼ばれた満済准后の日記には、満直の活動を示す記事が残されている)。それに対して稲村御所の満貞はあくまでも甥・持氏を支持し、鎌倉に退去した。永享10年(1438年)に発生した永享の乱で、満直は幕府方として石橋氏、蘆名氏、田村氏らを率いて参陣している。持氏と満貞は鎌倉で自害した。

永享の乱で持氏が自刃すると、将軍足利義教は自分の息子を鎌倉公方として下向させることを画策する。それには反対し、結城氏朝・結城持朝が持氏の遺児を擁立して永享12年(1440年)3月、結城合戦が勃発した。乱は嘉吉元年(1441年)4月に鎮圧されるが、乱の最中の永享12年6月24日(旧暦)、下総結城氏に呼応する形で南奥諸氏が一斉に蜂起して篠川御所を襲撃、満直は自害に追い込まれた。

足利満隆
足利 満隆(あしかが みつたか、元中9年/明徳3年(1392年) - 応永24年1月10日(1417年1月27日))は室町時代の武将である。2代目鎌倉公方であった足利氏満の子。兄は足利満兼。養子には足利持仲(足利持氏の弟で自身の甥)。

甥の足利持氏とは不仲で応永23年(1416年)に足利持仲・上杉氏憲(禅秀)ともに挙兵し(上杉禅秀の乱)、一時は持氏を鎌倉から駿河に追い出し鎌倉を制圧したが足利持氏によって今川範政・上杉憲基らに攻められ鶴岡八幡宮別当坊で禅秀達とともに自殺した。

足利満貞
足利 満貞(あしかが みつさだ、生年不詳 - 永享10年(1438年))は室町時代中期の武将。父は第2代鎌倉公方・足利氏満。第3代鎌倉公方・足利満兼は兄。他に足利満直、足利満隆の兄弟がいる。

室町幕府と鎌倉府が和解し、1399年(応永6年)陸奥国、出羽国が鎌倉府の管轄となったため、満兼の命により陸奥国岩瀬郡稲村に下向、稲村御所(稲村公方)と呼ばれる。同時に満直も陸奥国安積郡篠川に下向し、篠川御所(篠川公方)と呼ばれる。両御所は鎌倉府の出先機関として陸奥の国人勢力を統合し、伊達氏や斯波氏といった反鎌倉府勢力に対抗するのが主要任務だったと考えられる。岩瀬郡は二階堂氏の勢力圏で、満貞は二階堂氏や安積郡の伊東氏、白河郡の白川氏などと連携してたびたび伊達氏と衝突している。

鎌倉公方が持氏に代替わりすると満直と持氏の関係が悪化し、満直は幕府と結びつく。それに伴い1424年(応永31年)11月、満貞は鎌倉に退去した。持氏は公方家伝来の宝物を譲るなど満貞を歓待した。1438年(永享10年)に発生した永享の乱では持氏に与力し、鎌倉で自害している。

足利義明
足利 義明(あしかが よしあき、長享元年(1487年) - 天文7年10月7日(1538年10月29日))は室町時代後期の人物。第2代古河公方足利政氏の子。第3代古河公方足利高基の弟。後に小弓公方を自称。足利義純・足利頼純・青岳尼・女子(上杉憲寛妻)の父。右兵衛佐。

早くから出家し、鶴岡八幡宮若宮別当(雪下殿)空然として僧籍にあった。父と兄が対立すると(永正の乱)、下野に移って宗済と改名し、その後還俗して名を足利義明と改め、上総国真里谷城主の真里谷武田氏の支援のもと、下総国小弓城を攻撃して千葉氏家臣の原胤隆・原虎胤・高城胤吉らを破って同城を占拠する。その後「小弓公方」を自称して古河公方と対立した。後に信保の没後の内紛に介入し、武田信隆を追放し武田信応を当主とした。一方で信隆は高基とその子足利晴氏、そして相模の後北条氏と結び義明と敵対する。

天文7年(1538年)、義明は大軍を起こして下総国国府台に出陣し、北条氏綱と決戦を行った(第一次国府台合戦)。当初は義明方が優勢だったが、氏綱の反攻に遭って戦死した。

義明の死で小弓公方は滅亡したが、その子足利頼淳(頼純)は初めは里見義堯・義弘(義弘の正室青岳尼は義明の娘)、後に豊臣秀吉の庇護を受けて存続することができた。

2009年01月22日

バハラーム4世

バハラーム4世(Bahram IV, ? - 399年)は、サーサーン朝ペルシア帝国の第12代君主(シャーハーン・シャー、在位:388年 - 399年)。登極する前はケルマーンの王であった。

この時代のサーサーン朝はローマ帝国同様、フン族など遊牧民の侵入に苦しんだことは分かっているが、詳細な記録に乏しく、はっきりしていない。ケルマーン地方には、アルダシール1世が東方のスィスターン地方からの防衛拠点として築いた「ウェフ=アルダフシール」という要塞があった。バハラーム4世は遊牧民対策に功を挙げて推挙されたとも考えられるが、本来は君主位に近い人物ではなかった。少なくともあっさり君主となったとは考えにくい。

バハラーム4世はアルメニアへの干渉を強め、クースロ王を幽閉、自分の兄弟であるバハラーム・シャープールを王位に就けた。ローマ皇帝テオドシウス1世は384年の平和条約を盾に援助要請を退け、干渉はしなかった。

399年、反逆者によってバハラーム4世は暗殺された。

シャープール3世(Shapur III, ? - 388年)は、サーサーン朝ペルシア帝国の第11代君主(シャーハーン・シャー、在位:383年 - 388年)。シャープール2世の息子であり、先代アルダシール2世の甥に当たるとされる。しかしこの時代は名前が同じ人間が多く、はっきりと断定はできない。

4年で廃位されたアルダシール2世同様、貴族の権力増大に掣肘を下すことが出来ず、388年に天幕の下敷きにされて暗殺されたと言われる(諸説あり)。これが正しければサーサーン朝で初めて暗殺された君主となる。事実ホスロー1世まで、貴族の権勢をいかにして抑えるかがサーサーン朝にとって重要な課題となり、大貴族によって運営されるアルサケス朝と全く同じ様相を呈していた。

アルメニア分割
先王からのアルメニア情勢の混乱に対して、事実上のアルメニア分割を行うことを、ローマ帝国との間で合意した。両国とも安全保障上、フン族を中心とする遊牧民の動向の方がより重大事になっていたからである。カフカースを越えて進入してくる遊牧民を抑えることは必須であるため、両国ともアルメニア情勢で必要以上にもめたくはなかった。アルメニアは狭い西部と広い東部に分けられた。

ビザンツ帝国のファウストスのアルメニア史では、アルメニアはクシャンにもアルサケス家が存在していたと見ていた。またクシャンの言葉が一般的な用語として用いられており、何らかの一体感を持っていたようである。

アルダシール2世(Ardashir II, 生死年不詳)は、サーサーン朝ペルシア帝国の第10代君主(シャーハーン・シャー、在位:379年 - 383年)。先々代ホルミズド2世の息子で、先代シャープール2世の兄弟であると言われる。王となる前はアディアバネの王であった。

サアーリビー(ペルシアの諸王の歴史)とフィルドゥシーの「王の書」によると、シャープール2世には1歳年下の弟を次の君主に指名し、幼い息子が成人したときに譲位するように遺言したとある。事実そのように王位は継承されている。

貴族たちの権勢はシャープール2世の時代に既に強くなっており、アルダシール2世は4年で廃位され、シャープール3世に譲位した。

アルメニアでは親ローマ派と親ペルシア派の対立が増し、アルサケス王家の血を引くマニュエルが王パーラの未亡人を擁立して、自身が筆頭司令官となりペルシアの軍隊を駐留させた。しかしマニュエルは虚報によってこれを叩いてしまい、混乱の最中に自身も死ぬ。緩衝地帯の混乱は両国にとっても好ましい状況ではなく、テオドシウス1世とアルダシールの間に平和条約が結ばれた。アルダシール2世は383年には退位したため、実際には384年にシャープール3世との間で結ばれた。

シャープール2世(Shāpūr II, 309年 - 379年)はサーサーン朝ペルシア帝国の第9代君主(シャーハーン・シャー、在位:309年 - 379年)。先代ホルミズド2世の息子である。中期ペルシア語ではシャー(フ)プフル(š'(h)pwhl / Šā(h)puhr)ないしシャー(フ)ブフル(š'(h)bwhl / Šā(h)buhr)。アラビア語資料では特にサーブール・ズ=ル=アクターフ(????? ?? ??????? Sābūr Dhū al-Aktāf)といい、近世ペルシア語資料でも同じくシャープール・ズ=ル=アクターフ(????? ?? ??????? Shāpūr Dhū al-Aktāf)と表記される。

シャープール2世の時代は初期サーサーン朝の中央集権化プロセスの一つのピークであると考えられる。大貴族はシャープールの登位を後押しした。この大貴族達がどういう勢力なのかははっきりしないが、まだ生まれてもいないシャープール2世を君主として担ぎ上げることを決める。母はユダヤ人であるといわれ、妊娠中の腹に王冠が置かれた。それまでの王家のバハラーム系とナルセ系の対立を見れば、王統が二分する危険性を認識していたのだろう。兄たちのうち一番上の兄は殺され、2番目の兄は目を潰され、3番目の兄は牢獄へ閉じ込められている(苦しくも先代の時と同じくホルミズドという名前で、彼もローマへ逃げている)。

3人の王子たちを差し置いて、生まれる前から君主とされたのは史上稀に見るケースである。背後に何らかの強い意志、シャープール2世でなければならないという理由があるはずだが、はっきりしたことは分かっていない。ただ、70年という長期政権の下、シャープール2世はそれまでのサーサーン朝の悲願であった北部メソポタミアとアルメニアの宗主権の奪還に成功するという偉大な業績を成し遂げたことから、強い君主を望む背景・支援があったことは確かであろう。

当初、幼いシャープールは貴族の傀儡と言っても良かったが、貴族の黙認の下に権力を握っていった。ローマ帝国のディオクレティアヌスやコンスタンティヌス1世の改革がサーサーン朝の政体、強力な中央集権化の参考にされたことは想像するに難くない。

業績

対ローマ戦に向けて
成年に達したシャープール2世は、シャープール1世のように、東方のシルクロードを抑えるためにクシャーン族を討ちに行く。交易路を確保して帝国内を繁栄させるためである。シャープール2世は中国のトルキスタンにまで達し、それまでクシャーンが独占してきた利益をそっくりそのまま享受できるようになった。以来、両国の文化が影響しあい、使節が送られることになる。

スサの反乱に対しては、町そのものを象で踏み潰すことで芽を完全に摘んだ。その後、ローマ人捕虜のために市を再興し、イーラーン・フワル・シャープール(シャープールにより建てられた、イランの栄光)と名付けられた。他にニーシャープール(en:Nishapur)など、多くの市が再建あるいは建設された。

シャープールはホルミズド2世の敵討ちの意味もあって、アラブにも遠征し、砂漠に逃げ込む彼らを執拗に追って殲滅していった。 

対ローマ帝国
東方情勢の安定化と内乱の沈静化によって、シャープールは40年にわたる和平を破り、対ローマ戦争に踏み切った。337年にコンスタンティヌス1世の死を挟んだこともあって、2度の戦役に分けられる26年に及ぶ長い戦いが始まる。コンスタンティウス2世の時代、344年のシンガラの包囲戦(en:Siege of Singara)でも芳しい成果を上げられなかった。シャープ?ルはニシビス(en:Nisibis)を3度にわたって攻囲したが落とせず、アナトリア半島南東部の城塞都市アミダ(en:Amida)も抜くことは出来なかった。

シャープール2世の時代に、歴史的な大事件であるフン族の移動が始まった。サーサーン朝の領内にもフン族、及び押し出された諸民族が流れ込んできた。彼らはキダーラ(en:Kidarites)、キオニテ、エフタルなどと呼ばれた。シャープール2世は353年から358年にかけて東方で彼らと戦い、その後に和を結んで東方に住まわせ、ローマ帝国と戦う同盟者とした。

サーサーン朝軍はシンガラ(en:Singara)においてローマ軍に敗れ、王子ナルセが戦死する被害を蒙った。しかし359年、遊牧民の援軍を得たシャープール2世は73日間に及ぶ包囲の後、アミダを陥落させた。このアミダの攻略により、サーサーン朝の優勢は決定的なものとなる。この戦いはローマの史家アミアヌス・マルケリヌスによって記され、シャープール2世は自ら陣頭に立って遠征軍を指揮し、黄金の牡羊の頭部を模した王冠を被っていたと記されている。360年にはシンガラといくつかの要塞都市を陥落させた。

アミダ陥落に衝撃を受けたユリアヌス帝は自ら出陣する。363年のクテシフォンの戦い(en:Battle of Ctesiphon (363))では優勢に立つも、ユリアヌスは戦死した。後継者ヨウィアヌスは軍を安全に退却させるため、ティグリス川左岸のローマ要塞ニシビス、シンガラなど計5つの属州をシャープールへ割譲、アルメニアから手を引くという大幅な譲歩をする。これによりシャープールはアルメニアへ侵攻した。その後シャープールはウァレンティニアヌス1世との交渉のためアルメニアへ赴こうとしたが、ウァレンティニアヌスがゴート戦で戦死したため実現しなかった。シャープールはアルメニアの親ローマ派である王アルサケス2世(en:Arshak II)を幽閉後自殺に追い込み、アルメニアをキリスト教国からゾロアスター教国へ変えようとした。
ニーシャープールにある石碑には、おそらくヨヴィアヌスと思われる人物がシャープール2世に対して膝まづいて和を乞う姿が描かれている。

サーサーン朝の国是である、アケメネス朝の再興に向けての領土拡張という点では偉大な成果を挙げはしたが、当時としては異例の長期間、半世紀を越す在位は貴族たちの権勢を弱め、またローマとの戦いで蒙った被害も大きかった。その後、貴族たちの王家に対する干渉が強くなっていった。

宗教政策
シャープール2世はそれまで寛容な宗教政策を改め、再び異教に対して厳しい政策を取った。キリスト教は既にアルサケス朝下でメソポタミアにも広がっていた。これらはシャープール1世や2世自身によって捕虜となったローマ人が中心だった。司教はクテシフォン、ジュンディーシャープール(en:Gundeshapur)、ビーシャプール(en:Bishapur)などに存在した。シャープール2世はローマとの戦費調達のため、キリスト教徒に倍の税金をかけた。これは339年から始まり、シャープールの死まで続いた。キリスト教への迫害はコンスタンティヌス1世のキリスト教国教化への意趣返しでもあった。キリスト教の中心地はクテシフォン、アディアバネ、フーゼスターンであった。
ドタキャン ターム みゅすか オプテ オースト ヌクレ バコマ ソプラ シャン ライナ オオボ チョン ネコン ブロス ロード おおだま バリア チャーム ヤブコウジ シアター 風模様 フェニック ジェット サーチ群青 トウバ マルア コンバレー サンベ ジャンパ アパチャー フィジカ キュリー スカンジ シガー タワナ マンガ グーイ デュオ トリレ ラジアン ピーチ パール チーム ビースト オシロ エリトリア トラッ トデー 樹やしき リュウノヒゲ


ゾロアスター教の教会組織は独立していたが、君主により支えられていた。サファヴィー朝同様、最高の地位は教会・国家に君臨する君主であった。しかし一方で司教、他方で貴族によって組織されていた。シャープール2世時代のゾロアスター教の上位神官階級であるモーバド、アードゥルバドは他の宗教よりゾロアスター教の地位を高め、宗教信条の確立に努めた。聖典であるアヴェスターはこの時代に確立した。また異端排斥も強まり、ズルワーン教は排撃された。

2009年01月15日

薬品原料としての植物

ション トリソウ コホシュ 砂漠 スタディ イライン リセッセ シミュレ タリオ ドライシ アカネス 晴レルヤ グレープフ イナル タラップ クォーラム ウンセケ ブルート シュガ オートク しむか かんげん ボール 海辺の扉 ブィク バック ミディア 蛍の光 スクリュ 天喜人気 チーズ セラピー ゴリラ コレク ブックパカ テクタイト スローピン サンダー タータン ガイドヒヒ シトリン プリ マップ テークオフ シュビル クイヤン バンド トピック SEOタウンテニス シーディー

薬品原料としては様々な植物がある。例えば中華料理では香辛料として用いられる八角にはシキミ酸が含まれるが、これを原料に化学反応を行いインフルエンザ治療薬のオセルタミビル(商品名「タミフル」)が合成される。ただ八角を幾ら食べてもインフルエンザには効かない。またシキミ酸は八角から抽出されるものの植物由来であることから安定供給の面で難があり、2006年には石油から合成されたリン酸オセルタミビルより化学反応を経てオセルタミビルを合成する手法が開発され、同薬の安定供給に期待がもたれている。

現代の医療では治療が困難、あるいは不可能な病気や症状と言うものも少なからず存在するが、最後の頼みの綱として薬草が求められる場合もある。こういったものは実際に効果があるのか、或いは不安を取り除く一種の暗示的なものなのか(→フードファディズム)といった、社会現象的な側面からも注意を要する健康ブームも見られる。

この中では、「末期ガンに効く」薬草やキノコのようなものも一般に出回っており、この他にも各種慢性疾患や生活習慣病などの治療効果などが囁かれる薬草も少なくない。先述のように、薬草には分析や評価が困難な成分があるなど、科学的には理解できなくても効果そのものはある可能性がある、ないし在るであろうと予測できるためであり、バイブル商法を含めると効果が上がったという話は枚挙にいとまがない。そこから新たな薬品開発を模索する研究も行われることがある。

ただし、実際には上がった効果の原因として、プラセボ効果である場合や、他の並行して行われた治療に拠る効果、或いは個人的な体質の問題も考慮しなければならない。往々にして不確かな健康食品の類ではその辺りの検証が後回しになっているケースすらあり、これに拠る健康被害といった問題すら見られる。この危うさにつけ込んだ悪徳商法も時折出現する。なお日本では、医学的な証明ができないまま薬効を宣伝して商品を販売すると薬事法違反となるが、悪徳商法の常として、それら法制度の穴を探るような業態が見られないわけではない。

文化形体と薬草
南米アンデスでは呪術師が薬草を使い、医師の役割も果たしてきた(→呪術医)。ボリビアのカリャワヤが有名で、彼らの持つ世界観は2003年に「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」(世界無形遺産候補)に選ばれている。

主な薬草
アオダモ
オオムギ
甘草
クチナシ
ケツメイシ
人参
ヒノキ
ヘチマ
麻黄
桂枝
芍薬
生姜
大棗
杏仁
苦参
柴胡
牛黄
山椒
地黄
大黄
当帰
丁子
杜仲
アカザ
アカネ